歴史・縁起

History/Auspicious

- 縁起 -

日向山霊山寺(現 宝城坊 日向薬師)は第四十四代元正天皇の時代、霊亀2年(716)2月8日、行基菩薩 四十九歳の時に開創されました。
行基が諸国を巡って修行をしていたときです。紀州(現在の和歌山県)の熊野に詣でる途中、行基は道の傍らに伏す重病人と出会いました。行基は病人を労り、熊野の湯に入れようと背負って温泉へ連れて行きました。すると病人が、「私は、東方上瑠璃世界の薬師です。あなたの修行を試そうとして仮の姿をしていました。あなたの真実はよくわかりました。私の姿を写し、寺を開いて人々を救いなさい」と言い、光を放ちながら天へ消えました。行基は不思議に思い、梅、椿、百旦の葉を空に投げ、この葉の行くところに薬師の尊像を安置しようとして、その跡を追っていきました。すると、葉が日向の山にとどまったので、そこに寺を開くと決めました。たちまち、二人の老翁が現れ、「行基よ。これは釈迦の尊像を造った時の残りの木です。あなたに授けます。私は熊野権現、白髭明神です」と言って去っていきました。行基はその木で高さ五尺の薬師如来を造りました。これが本尊です。
この話が元正天皇の知るところとなり、天皇はたいそう感銘して、十七の堂塔が建立されました。その姿が、さながら霊山浄土のようであったことから、名を霊山寺とし、六十石の御朱印をくださりました。熊野、白髭の二神も当山の守護神として四石の御朱印を賜りました。
こうして、日向薬師霊山寺は日本三薬師のうちでも、ただ一つの勅願の霊場となりました。

- 霊山寺 宝城坊 日向薬師の歴史 -

時代 元号 西暦 出来事 根拠
奈良 霊亀2 716 行基、霊山寺を開創 吾妻鏡
平安 10世紀頃 木造薬師如来両脇侍像(鉈彫、国重文)開眼
天暦6 952 村上天皇の詔により銅鐘が鋳造される(初代) 銅鐘銘文
寛仁4〜万寿1 1020〜1024 大江公資の妻、歌人相模参籠 相模集
仁平3 1153 鳥羽上皇の院宣により、銅鐘を改鋳(二代) 銅鐘銘文
久寿1 1154 糟屋荘が立券、安楽寿院領となる
庄司は糟屋盛季
安楽寿院領諸荘所済注文
平治1 1159 美福門院得子(鳥羽上皇の皇后)により糟屋荘の課役が免除される
この頃 木造十二神将立像(県指定)造立
鎌倉 建久2 1192 源頼朝、政子の安産を祈願して神馬を奉納 吾妻鏡
建久5 1194 頼朝が娘の病気平癒のため霊山寺に参詣 吾妻鏡
建久年間1190~99 後鳥羽天皇が頼朝に修造を命ず 日向薬師縁起
承元4 1210 政子が霊山寺に参詣 吾妻鏡
建暦1 1211 政子、実朝夫人とともに霊山寺に参詣 吾妻鏡
この頃 薬師如来坐像、日光・月光菩薩立像、阿弥陀如来坐像、四天王立像(以上、国重文)、賓頭盧尊者坐像(市指定)造立
弘安1 1278 藤原定吉、源氏女が日向七所権現に懸仏を寄進 新編相模国風土記稿
この頃 厨子(国重文)建造
獅子頭(国・県指定)製作
南北朝・室町 暦応3 1340 銅鐘を改鋳(国重文・三代)、十二神将(国重文)を勧請 銅鐘銘文
この頃 (伝)妙沢版木(市指定)製作
延文2 1357 唐櫃(県指定)奉納 唐櫃内側墨書
貞治3 1364 足利尊氏の子、基氏(鎌倉公方)が大幡(県指定)を奉納 新編相模国風土記稿
康暦2 1380 後円融天皇の綸旨により、三河、遠江の棟別銭で堂を修造 ・管領斯波義将施行状・後円融天皇綸旨
天文9 1540 大太鼓(県指定)の革を張り替える 太鼓内墨書
安土桃山 永禄12 1569 日向の山伏、津久井青根で武田信玄と戦い敗北
天正19 1591 家康より寺領60石の朱印状を受ける
江戸 万治3 1660 幕府から丹沢の立木100本を賜り、本堂(国重文)を修理 ・棟札
・新編相模国風土記稿
元禄2 1689 本堂扉の修理 扉金具銘文
18世紀前半 鐘楼(市指定)建立
元文4 1739 千手堂建立 千手観音墨書
元文5~延享2 1740~1745 本堂、仏像の修理 ・本尊光背裏墨書・新編相模国風土記稿
天保4 1833 仁王門焼失、再建 新編相模国風土記稿
この頃 金剛力士像(市指定)造立 賓頭盧尊者像墨書
明治 明治3 1870 宝城坊を残し、他の坊が廃絶
明治33 1900 本尊薬師三尊、国宝(現、国重文)となる
昭和 昭和40 1965 宝殿(収蔵庫)建立
昭和49 1974 神木のぼり(市登録文化財)復活
平成 平成23.1
~平成28.11
2011〜2016 平成の大改修-本堂の保存修理工事-